「角屋もてなしの文化美術館」は、江戸から明治初期まで揚屋(あげや)と呼ばれる一見さんお断りの高級料亭として営業していた「角屋(すみや)」の建物内部と角屋が所蔵する美術品を公開しています。
江戸時代、角屋は京都の民間最大規模の饗宴の場であり、公家や俳人などの文化人、新選組の芹沢鴨や近藤勇、西郷隆盛や坂本龍馬などの幕末の志士が利用した場所でした。
現在も江戸時代に島原と呼ばれた地に残る角屋には、当時からのお座敷がには、現代では再現できない当時の職人の匠の技と日本美術史に名を残す円山応挙や与謝蕪村などの襖絵が残ります。
角屋もてなしの文化美術館はこんな方にはたまらないスポットです。
- 建築好き
- 匠の技好き
- 新選組好き・勤王志士好き・幕末好き
- 日本美術好き(円山応挙・与謝蕪村好き)
なお、本記事はこんな方に向けた記事です。
- 初めて角屋もてなしの文化美術館の存在を知ってどんな場所か知りたい方
- 入場料1800円を出してでも1階2階、両方の座敷を見る価値があるか迷っている方
- 公式サイトを見ても予約方法などがよくわからず困っている方
- 角屋もてなしの文化美術館へのアクセス情報を詳しく知りたい方
では、目次を開いて気になる項目から読み進めてください。
角屋もてなしの文化美術館はこんなところ
角屋もてなしの文化美術館(島原角屋)の存在を始めて知った方に向けて書いていきますね。
角屋の外観
よく、角屋の写真として使われるのは↑こちらの角度から撮った写真ですね。
建物1階の真ん中の奥まった(へこんだ)部分が「門口」と呼ばれる揚屋(料亭)の入り口です。
揚屋(料亭)の入り口である「門口」を正面から見た写真がこちら↑。
門の左右に建物がある「長屋門形式」になっています。
長屋門とは:門の扉口の両側に部屋が連なる形式の門
普段は、門口前には結界が置かれ、ここから出入りすることはできません。
角屋の休館期間に「京の夏の旅・冬の旅」の企画で角屋1階が公開されるときは門口が開き、拝観入口になります。
建物をもう少し引きで見るとこんな感じ。↓
上の画像の左手、開いている門の部分が通常の拝観用の入口になります。
入り口から入ると赤い壁、弁柄色の建物が現れます。
この赤い壁が当時高級な場所の証だったのです。
この建物は、拝観受付と企画展示室(角屋所蔵の文化財を展示するミニ美術館)になっています。角屋もてなしの文化美術館の公式サイトに書かれている「企画展」は、ここで行われます。
なお、建物をの外側をさきほどと反対側から見るとこんな感じ。↓
角屋の敷地は結構大きいです!
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角屋で誤解されがちなこと
「角屋」を元遊郭だと思って見学に行く方もいるのですが、「角屋」は”元遊郭”ではなく”元高級料亭”です。
もちろんお客さんには男性が多く、宴会の場に呼んだ太夫や芸妓さんとの恋愛関係はあったかもしれません。ですが、角屋は基本的に文化的な芸事を楽しみながら宴会をする場所でした。
ちなみに、江戸時代には現在の角屋がある一帯(島原)には揚屋がいくつもあり、母親孝行したい男子が母親をもてなすため連れてきたという話が残る場所です。
具体的には、幕末の志士・清河八郎が壬生浪士組を募る8年前に母を連れて角屋で宴会を開き、思想家で詩人の頼山陽は角屋の隣にあった揚屋で宴会を開いています。
江戸時代の島原の様子を描いた図がこちら。
(「島原鳥瞰図(1839年・天保10年頃)」画像出典元:角屋案内記)
角屋は他の美術館とここが違う!
角屋もてなしの文化美術館は、歴史ある文化財をガラスケースできれいに保存して現代に伝える美術館ではなく、江戸当時のもてなしの文化を”体感してもらう美術館”として運営されています。
なので、お座敷にある襖や欄間など貴重な文化財をガラスケースに入れて展示するのではなく、当時の空間を肌で感じられるようにそのままの形で見学できるようになっています。
そのため、襖絵などが夏と冬の寒暖差や湿度の違いで、ある日裂けてしまうといったことが起きています。
1日でも早く見に行く方が状態の良い文化財が見れる美術館ですね。
また、江戸時代は油やろうそくを使う灯器具だったため、特に2階のお座敷は壁や天井、襖絵にはロウソクの煤がついて真っ黒になっています。
それでも、ガイドさんの解説を聞きながら現代では再現できない当時の匠の技について話を聞くと、その素晴らしさがよくわかります。
一部のお座敷の天井や調度品は、すす洗いをしてキレイにしたものも見られます。
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角屋の歴史とゆかりの人物
角屋の歴史
角屋の歴史で押さえておきたいポイントは次の5点です。
- 1589年(天正17年)に初代・徳右衛門が揚屋「角屋」を始める
- 豊臣秀吉時代と徳川家康時代に移転を命じられ現在の住所に落ち着く
その後、2階の座敷などの増築を繰り返し現在の規模となる - 明治に入り大宴会の需要が減り1872年(明治5年)に「揚屋」から「茶屋」へ業態を変更
※揚屋は宴席に出す料理を台所でつくり、茶屋は料理は作らず外注し取り寄せる(仕出しを利用)
※茶屋になってからは1階の大座敷「松の間」を利用 - 太平洋戦争時に取り壊されそうになるが西郷隆盛が行水に使用したタライの存在のおかげで文化的価値が高いとされ取り壊されずに済む
- 1985年(昭和60年)現在の地に移ってから唯一残る揚屋として重要文化財に指定される
角屋は、秀吉が世を収めた戦国時代(1589年・天正17年)に産声をあげ、政府の区画整理に振り回され移転を2階行い1641年(寛永18年)に現在の住所に落ち着きます。
現在の地に移った江戸から明治初期にかけて一見さんお断りの高級料亭として多くの貴人・文化人をもてなしてきたた場所です。
江戸時代末に発行されたの京都の名所案内イラストガイドブック『都林泉名勝図会』で紹介されるなど、有名な場所でした。
■都林泉名勝図会
1799年(寛政11年)刊行された京都の名庭園を紹介したガイドブック。文章を京都の俳諧師・秋里籬島が担当し、挿絵を絵師の佐久間草偃、西村中和、奥文鳴の3人が描いた。全5巻・1巻は上下巻の2冊。
ただ、時代の流れと共に京都の中でも不便な立地にあった島原界隈は錆びれていきます。
明治に入ると大宴会の需要も減り、角屋は「揚屋」から「茶屋」に業態変更しました。
茶屋としては1985年(昭和60年)まで営業していました。
現在、重要文化財に指定されている角屋は、実は太平洋戦争時に取り壊されそうになったことがります。
空襲による延焼を防ぐため、家屋を取り壊す「建物強制疎開」の対象になったのです。
ですが、角屋を調査に来た役人が西郷隆盛など名だたる人物が訪れた場所だと知り、取り壊しを保留にし、そのまま終戦を迎えたことで現存しています。
角屋では、この取り壊しを防ぐきっかけを作った西郷隆盛が行水に使ったタライが展示されています。
なお、現在見られる角屋の間取りは、1784年(天明4年)に描かれたものとほぼ同じ状態です。
角屋の歴史概要 | |
---|---|
1589年(天正17年) | ・初代・徳右衛門が”二条柳町”にて角屋の営業を始める →二条柳町は豊臣秀吉が定めた公認遊廓街(傾城屋・揚屋・茶屋で構成) |
1602年(慶長7年) | ・”六条三筋町”へ移転(2代・徳右衛門) →徳川家康が二条城を立てるのに邪魔だと移転させた |
1641年(寛永18年) | ・現在の”西新屋敷(通称:島原)”へ移転(2代・徳右衛門) →政府公認の花街 |
1787年 | ・現在の規模となる(1781年頃から増築を繰り返す) |
1788年 | ・角屋案内書『寿見徳座敷之記』を発行(7代・徳右衛門) |
1799年 | ・京都の名所案内『都林泉名勝図会』に角屋の庭のなどが紹介される |
1821年 | 『すみ屋座敷の記』が発行される |
1872年(明治5年) | ・「揚屋」から「茶屋」へ業態変更 ・「松の間」を宴会に使用 ※揚屋は宴席に出す料理を台所でつくり、茶屋は料理は作らず外注し取り寄せる(仕出しを利用) |
1945年(昭和20年) | ・太平洋戦争時に空襲による延焼を防ぐため家屋を取り壊す(建物強制疎開)対象になる ・西郷隆盛が行水に使用したタライの存在のおかげで文化的価値が高いとされ取り壊されずに済み終戦を迎える |
1985年(昭和60年) | ・島原が開かれて以来現存する唯一の「揚屋」の遺構(生活の痕跡)として国の重要文化財に指定される ※「松の間」のみは大正末期の火災後の再建で、重要文化財には指定されず ・「茶屋」としての営業も終了 |
1989年(平成元年) | ・「財団法人角屋保存会」を設立 ・1日30人限定で内部を公開を始める |
1998年(平成10年)4月 | ・「角屋もてなしの文化美術館」開館 ・一般に公開される |
2010年(平成22年)4月 | ・角屋の庭が名勝に指定される 玄関庭・東坪庭・中坪庭・西坪庭・座敷庭(臥龍松の庭) |
2012年(平成24年) | ・「松の間」が登録有形文化財に登録される |
角屋ゆかりの人物と文化財
角屋ゆかりの人物として押さえておきたいのはこちらの方々!、
桂小五郎、寺島忠三郎、他に、あの坂本龍馬
- 新選組:初代局長芹沢鴨、近藤勇、土方歳三
→芹沢鴨暗殺前に角屋1階の松の間で局長以上の宴会が行われた
→新選組の隊士たちはたびたび新選組で宴を開きつけをためすぎで新撰組側から出禁にするよう要請があったほど(角屋に出禁の書の展示あり)
→角屋には新選組見回り時につけた刀傷が複数残る - 勤王志士:西郷隆盛、久坂玄端
→尊攘派の志士が密議の場所として角屋を利用
→豪商からの資金調達などをおこなった
→坂本龍馬、桂小五郎、入江久一、寺島忠三郎も角屋を利用したともいわれる - 俳人・絵師:与謝蕪村、円山応挙、石田幽汀、岸派(岸駒・岸良・岸連山)
→角屋がある島原に住んでいた与謝蕪村に角屋の6代目・7代目の当主が師事している
→角屋は当時の名だたる絵師・画家に襖絵などの作成を依頼
角屋は江戸時代の観光本ともいえる『都林泉名勝図会』でも紹介されていたので、ここに挙げた人物以外にも様々な著名人が訪れている。
絵師・画家ごとに角屋にある文化財を一覧にしてみました。
興味の合う方はご覧ください。角屋の各部屋は本記事内で写真付きで紹介しています。
角屋もてなしの文化美術館 絵師/画家と文化財 | |
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石田 幽汀 (1721-1786) |
江戸時代中期の鶴澤派(狩野派の一派)の絵師 円山応挙の師 ⇒御簾の間・口の間(2F):床地袋『金地花鳥の図』 |
与謝 蕪村 (1716-1784) |
江戸時代中期の日本の俳人、文人画 ⇒桧垣の間(2F):襖絵『夕立山水図』 ⇒梅の間(2F非公開):襖絵『梅の図』 ⇒島原文化資料室(1F)の展示:4曲の屏風『紅白梅図屏風』 |
円山 応挙 (1733-1795) |
江戸時代中期~後期の絵師で円山派の祖 ⇒馬の間(2F):襖絵『少年行の図』 |
岸駒 (1756-1839) |
江戸時代中期から後期の絵師で岸派の祖 ⇒青貝の間(2F):襖絵『山水図』 ⇒扇の間(2F):額『前赤壁の図』(岸岱との合作) ⇒非公開『黒梅図杉戸』『波濤図 』 |
岸岱 (1782-1865) |
江戸時代中期から後期の絵師で岸駒の長子で岸派の2代目 ⇒扇の間(2F):額『前赤壁の図』(岸駒との合作) |
岸良 (1798-1852) |
江戸時代後期ので岸派の絵師 ⇒松の間(1F):衝立『布袋の図』 ⇒緞子の間(2F):歩障『花車の図』 |
岸連山 (1804-1859) |
江戸時代後期の岸派の絵師で岸駒の養子 ⇒松の間(1F):襖絵『桐に鳳凰の図』 |
山田 峨山 (?-?) |
江戸時代後期の画家 ⇒御簾の間・口の間(2F):襖絵『総御簾の図』 ⇒草花の間(2F):襖絵『四季草花の図』 ⇒非公開:衝立『馬図』 (現在の衝立『布袋図』と取り替えられ破棄されたが破棄されずに残っている) |
江村 春甫 (?-?) |
江戸時代中期-後期の画家 ⇒孔雀の間(2F非公開):3面の「孔雀に牡丹 海棠の図」 |
長谷川 等雲 (?-?) |
⇒網代の間(1F)襖絵『唐子の図』 |
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角屋もてなしの文化美術館の基本情報
拝観方法・料金・予約の有無
拝観方法と予約の有無
角屋もてなしの文化美術館(島原角屋)の拝観方法はコロナ以降、1階も2階も案内ガイドとめぐるツアー形式(ガイドツアー)となっています。
ツアーの定員、所要時間、開始時間はこちらになります。
角屋もてなしの文化美術館の拝観方法 | |
---|---|
1階部分 | ・案内ガイドとめぐるツアー形式 ・定員20名 ・所要時間30分 ・予約不要 |
1階のガイドツアー開始時間 ・1回目:10:30~ ・2回目:11:30~ ・3回目:12:40~ ・4回目:13:30~ ・5回目:14:30~ ・6回目:15:30~ |
|
2階部分 | ・案内ガイドとめぐるツアー形式 ・定員10名 ・所要時間30分 ・要予約 |
2階のガイドツアー開始時間 1回目:10:15~10:45 2回目:13:15~13:45 3回目:14:15~14:45 4回目:15:15~15:45 |
※拝観方法やツアーの時間は変更になる場合があります。お出かけ前に公式サイトも併せてご確認ください。
残念ながら2階だけを見ることはできません。
1階だけ見る場合は事前予約は不要です。
1階も2階も両方見たい場合には事前に電話予約が必要です。
(空きがあれば当日参加も可能)
1階と2階の両方見学する方は、ちょっとややこしいのですが2階のガイドツアー時間の前か後に1階を見学する形になります。(1階も案内ガイドさんと一緒にめぐる)
もし、1階の見学途中で2階のガイドツアー開始時間になった場合は途中で2階に上がり、2階の見学が終わった後に1階の残り部分をガイドさんの説明を聞きながら見学します。(他のお客様との状況に合わせて重複して見学することもある)
拝観料金
拝観料金は次の通りです。念のため予約の有無も改めて記載しています。
角屋もてなしの文化美術館の料金と予約の有無 | ||
---|---|---|
1階のみ 見学の場合 |
予約の有無 | 1階のみの見学は、予約不要(ガイドツアー形式) |
料金 | 1階のみは以下の通り 大人:1,000円 中・高生:800円 小学生:500円 |
|
1階と2階 両方見学の場合 |
予約の有無 | 1階2階両方の見学は、事前に電話予約が必要(ガイドツアー形式) ※当日空きがあれば見学可能 |
料金 | 1階2階両方の見学は以下の通り 大人:1800円 中・高生:1400円 ※2階は小学生以下は見学不可 |
前述していますが、残念ながら角屋の2階だけの見学(拝観)は不可です。
1階のみのチケットを購入して見学した後に2階も見たくなった場合、定員に空きがあればチケットを追加で購入して2階を追加で見学(拝観)することはできます。
公開期間・休館日・公開時間
角屋もてなしの文化美術館 | |
---|---|
公開期間 (開館日) |
・3月15日~7月18日 ・9月15日~12月15日 |
休館日 | ・毎週月曜日休館(祝日の場合は開館、翌日が休館) ・7月19日~9月14日 ・12月16日~3月14日 ※重要文化財でエアコン設置ができないため夏と冬はお休み |
公開時間 (開館時間) |
10:00~16:00 ※コロナ以降、1階も2階も案内ガイドとめぐるツアー形式となったため、指定された時間からの見学になります。詳細は以下の通り |
【1階のガイドツアー時間】 ・1回目:10:30~ ・2回目:11:30~ ・3回目:12:40~ ・4回目:13:30~ ・5回目:14:30~ ・6回目:15:30~ ※定員20名・所要時間約30分・予約不要 |
|
【2階のガイドツアー時間】 1回目:10:15~10:45 2回目:13:15~13:45 3回目:14:15~14:45 4回目:15:15~15:45 ※定員10名・所要時間約30分・要予約 |
7月19日~9月14と12月16日~3月4日が休館になる理由
木造2階建ての角屋の建物(主屋)は、国内に唯一現存する「揚屋建築」として国の重要文化財に指定されているため、エアコンがつけられず真夏と真冬は休館になります(特に2階が夏は暑く冬は寒いため)。
休館期間に京の夏の旅・冬の旅の企画で1階のみ公開されることも
休館時期に「京の夏の旅」「京の冬の旅」の企画で特別に公開されることがあります。
「京の夏の旅」「京の冬の旅」の場合は、1階だけの見学になるので要注意です。
ただ、2階が見れない代わりに普段は締まっている「門口(正式な玄関)」が開けられ、拝観受付の入り口になります。
門口から入れるのはレアな体験になりますね。
2023年7月19日(水)~9月14日(木)
・1階の「松の間」「網代の間」など
・西郷隆盛が行水に使用した盥や新選組掛売禁止の古文書の特別展示
※二階座敷と美術館は対象外
撮影の可否
角屋もてなしの文化美術館撮影の可否 | |
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1階 | ・1階は室内、庭共に撮影可能 ※室内のガラスケースに入った展示物と企画展示室内は撮影不可 ※三脚の使用は不可 |
2階 | ・2階は全面撮影不可 |
角屋での写真撮影は、1階は庭も建物も撮影可能です。
ただし、三脚の利用はNGで、1階にあるガラスケース内の展示物・展示室内は撮影NGです。
2階は全面撮影禁止です。
コロナ以降、1階の見学も案内ガイドとめぐるツアー形式となっていて、ツアーが終了した後に、中に戻って再度見学することができないので、1階で写真を撮るときはツアー中に撮る必要があります。
受付の流れ
1.拝観チケットは券売機で購入 | 2.チケットを受付の方へ渡す (特別観覧=1階と2階の見学) |
3.パンフレットと2階見学証を受け取る | 4.ロッカーに荷物を預ける |
見学の際、襖や壁にカバンがずれたりしないよう手荷物は鍵付きロッカー(無料)に預けます。貴重品が心配な方は、ポケットに入れたり小さなポーチを用意しておくのがおすすめです。
ガイドの案内ツアーが始まる時間まで、受付と同じ建物にある「展示室(美術館)」を見学するか、立ち入りがOKな中戸口(台所の従業員入り口)周辺を見学して待ちます。
ガイドツアー開始時刻になったら、土間側から入り見学者用の下駄箱に靴を預けて室内へ愛って行きます。下の写真↓は見学者用の下駄箱です。L字型なので写真に写っている左側話の面にも靴を入れるスペースがあります。
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角屋もてなしの文化美術館の公開エリアと見学ルート(見取り図あり)
角屋1階の公開エリアと見学ルート
角屋もてなしの文化美術館の1階はこちらのエリアが公開されます。
A~C,①~⑪は見学ルートの順番です。(ガイドによって変わることもあり)
現在(2023年5月)、角屋の1階の見学はガイドの案内によるツアー形式(約30分)なので、担当されるガイドさんや参加人数によって多少ルートが変わったり、説明が飛ばされたりします。
それを踏まえたうえで、私が2023年に2回拝観した際の見学可能エリアとルートを紹介します。
角屋1階の公開エリアと見学ルート概要
では上の図のA~C、①~⑪の概要を紹介しますね。
◆角屋1階見学ルートの概要 | |
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A~C:見学前の準備ルート | ・受付から荷物を預けるまでがA~C A:発券機で拝観券(入場券を購入) B:見学の際、文化財にすれてしまいそうな荷物は預ける C:室内を見学する際は靴を脱いで下駄箱に入れる |
①:大津磨壁 | ・角屋ならではの廊下の壁の工夫の解説 ※ガイドさんによってこの説明はカットされることもある |
②:松の間と前庭 | ・1階で1番広いお座敷「松の間」と「臥龍松の庭」「茶室 曲木亭」「清隠斎 茶席」の見学&解説 ・庭、茶室、茶席は松の間の縁側から見るのみ ※松の間は再建されているので重要文化財からはずされている |
③:網代の間と中庭 | ・お座敷「網代の間(重要文化財)」の見学&解説 ・網代の間の前にある中庭は特に解説なし |
④:玄関(来客用)室内より | ・来客用の玄関(室内側から)の見学&解説 |
⑤:島原文芸資料室 | ・角屋所蔵の文化財の展示物の見学 ・ここに与謝蕪村筆「紅白梅図屏風(重要文化財)」がある ※ガイドさんによってはうっかりここを忘れる人もいるので注意です。特に与謝蕪村筆の屏風絵(重要文化財)を見たい方は必ずガイドさんに確認した方がいいです |
⑥:台所(土間以外) | ・台所の畳部分、板間部分(調理場や配膳場)の見学&解説 ・台所に西郷隆盛が行水に使用したタライの展示あり ・台所に展示コーナー(ガラスケース)があり時期によって展示内容が異なる(新選組掛売禁止の古文書はここの展示場所にある) |
⑦:台所(土間部分) | ・土間にある竈(かまど)や換気方法などの見学&説明 ※ガイドさんによっては⑧で解説することもあり |
⑧:中戸口(従業員出入口) | ・中戸口の土間側で飾り竈や台所の入り口の見学&説明 ※ガイドさんによっては解説カットされることもあり |
⑨:玄関(来客用)室外より | ・来客用玄関の外側の見学&解説 ・ここの見学の際に新選組の刀傷も見られる |
⑩:冷蔵庫と籠 | ・冷蔵庫と籠の見学&解説 |
⑪:展示室(企画展示室) | ・角屋所蔵の文化財の展示場所(時期によって異なる) ・美術館と表現されることもある ※ここはガイドの解説がないので、ツアー前かツアーの最後に個人で自由に見学 |
非公開部分には、女仕事部屋、女部屋、仲居部屋、男部屋、など使用人向けの室や2階に上がる階段などがあるそうです。
角屋もてなしの文化美術館肉前に、1階見学ルートに沿って各部屋の見どころを予習したい方はこちらをクリックすると、本記事内の該当部分にジャンプします!
角屋2階の公開エリア(公開範囲)
角屋もてなしの文化美術館の2階はこちらのエリアが公開されます。
見学ルートは①~⑧の順番です。
角屋2階の見学は、1階と違いコロナ前からガイドの案内によるツアー形式(約30分・予約制)でした。
2階に関しては、ルートはどのガイドさんでも同じで、各部屋での解説が担当されるガイドさんや参加人数によって変わります。
私が2023年に2回拝観した際の見学可能エリアとルートを紹介します。
角屋2階の公開エリアと見学ルート概要
◆角屋2階の拝観ルート概要 | |
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①緞子の間 | ・23畳、床・棚・付書院つき ・腰付障子の腰付部分に緞子(金箔が入っていない紋織物)が貼られていることから緞子の間と呼ばれるお座敷 →ここはお座敷内には入れない「御簾の間(口の間)」側から見学 ※緞子が貼られている部分は現在はろうそくのすすで真っ黒でよく見えないため、ガイドさんによっては御簾の間(口の間)側にある障子の腰つきをかがんで見ることをすすめてくれたりもする |
②御簾の間(口の間) | ・12畳 ・襖に御簾が描かれていることから御簾の間といい、階段から見て手前側にあるので口の間と呼ばれる →このお座敷の御簾が得かがれた襖絵は模写 |
③御簾の間(奥の間) | ・10畳、床・棚つき ・襖に御簾が描かれていることから御簾の間といい、階段から見て奥側にあるので奥の間と呼ばれるお座敷 →このお座敷の床の間は見えない工夫がされていてガイドさんの解説ともに見ることが可能 |
④扇の間 | ・21畳、押入つき ・天井一面に扇が貼られていることから扇の間と呼ばれるお座敷 →角屋の2階を紹介する写真はよくここが使われる |
⑤草花の間 | ・6畳 ・山田峨山が描いた襖絵「四季草花の図」があるため草花の間と呼ばれる部屋 |
⑥馬の間 | ・9畳 ・丸山応挙が描いた襖絵「少年行の図」(本物)があり、馬が描かれていることから馬の間と呼ばれる部屋 |
⑦桧垣の間 | ・14畳、床2か所・棚・押入つき ・部屋全体の装飾品や天井などが「桧垣模様」に統一されているお座敷 |
⑧青貝の間 | ・17畳、床・棚つき ・部屋全体の装飾品が「螺鈿」で統一されているお座敷 →螺鈿は貝殻のキラキラした面を漆地や木地などにはめこむ技法 ・青貝の間には新選組がつけた刀傷あり |
ちなみに、2階の非公開部分には次のお部屋がありますが、安全上の理由から非公開になっているようです。
【角屋2階・非公開エリア】
・「孔雀の間(4畳半・襖絵:江村春甫筆)」
・「八景の間(6畳・襖絵:与謝蕪村筆)」
・「梅の間(10畳半襖絵:与謝蕪村筆)」
・「囲の間(茶室)」
・「水屋(3畳台目)」
なお、2階を見学する場合、受付で↓下の写真にある2階の拝観証が渡されるので、これを見えるところに着けておきます。
角屋もてなしの文化美術館肉前に、2階見学ルートに沿って各部屋の見どころを予習したい方はこちらをクリックすると、本記事内の該当部分にジャンプします!
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角屋もてなしの文化美術館はいつ行くのがオススメ?
角屋もてなしの文化美術館 | |
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公開期間 (開館日) |
・3月15日~7月18日 ・9月15日~12月15日 ※月曜休館 |
京都に住む私のオススメ見学時期は、5月のゴールデンウィークあとがオススメ。
土日より平日の方が少人数で見学できる可能性があります。
次点は6月。
もともと、角屋は京都の観光スポととしてはマニアックなので大混雑ということはありません。角屋周辺もあまり観光客が来ない場所です。
ただ、京都全体を考えると3・4月の桜のシーズン、ゴールデンウィーク真っ只中、秋の紅葉シーズンは、国内外のツアー客だらけで電車やバス、人気飲食店は混雑するので、咲けた方が無難。
また、角屋は重要文化財なので松の間と展示室以外、冷暖房が完備されていません。
京都の暑さは湿気が多くむわっとするので、7.8月、残暑が厳しい9月は避けるのがベスト。
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角屋もてなしの文化美術館の見学レビュー
行ってよかったこと
- 今では再現できない匠の技がいくつも見られる!
- 江戸時代の著名絵師や歌人たちの襖絵や書などをまじかで見られる!
- お城やお寺では見られない、襖絵や部屋のデザインが見られる!
- 青貝の間が最高!
とにかく、今では誰もやろうとは思わないであろう匠の技のオンパレード!
今では再現できない技好きな私としては、江戸時代の匠の技に言葉を失ってばかりでした。
京都のお寺やお城の特別拝観にもかなりの数行っていますが、お寺やお城はやはり襖絵や空間のデザインは似たようなパターンになります。ですが、角屋のお座敷の場合、各お座敷でデザインが変えられ、襖絵の雰囲気やモチーフもお城やお寺では見られないものです。
お城やお寺は狩野派絵師の作品が多いですが、角屋では与謝蕪村や丸山応挙、岸派といったまた違った絵師の作品が見られる点も行く価値ありです。
個人的には「青貝の間」に出会えたことが一番行ってよかったことです。
初めて青貝の間を見学したときには、今では再現できない匠の技が現代まで残り、目の前で見れたことに感極まり涙しそうになるくらい感動したのを覚えています。
この日から螺鈿細工のとりこになりました。
私が実際に目にした「青貝の間」の壁は、煤で真っ黒なはずなのですが脳内で再生される「青貝の間」は、本来の壁の色(浅黄色)に螺鈿ですごく美しいのが自分でも不思議です。
来訪日:2012年9月19日、2023年5月27日、2023年6月4日
残念だったこと
角屋の建物自体、見られるもの自体は残念な部分はありません。
ただ、強いていうなら次の点はちょっと残念だと感じています。
- 各階30分なのでゆっくり見学できない点(特に1階)
→1階はガイドさんの説明をしっかり聞いてると写真撮る時間があまりとれない - ガイドさんの解説にばらつきがある点
→早口すぎたり、説明が少なすぎたり、見学ポイントスキップしたり
角屋は見るべき場所が多すぎて、各階30分のガイドツアーでは短すぎると感じています。
また、ガイドさんによって説明する場所の数や内容にばらつきがあるので誰に当るかで満足度が変わる点は、残念なところです。
とはいえ、角屋もてなしの文化美術館で見られる美術品や匠の技は申し分ない素晴らしいものです!
1800円を出して1階と2階の両方を見る価値はある?
角屋の場合、次にあげるような価値観やフェチの方には1800円の価値はあります。
こんな方は1800円でも1階2階の両方を見る価値あり!
- 拝観料(入場料)を文化財保存への貢献と考えられる方
- 室内が煤だらけでも襖絵が裂けていようとも2Fは写真が取れなくても江戸当時の空間を体感することや匠の技に価値を感じる方
- 螺鈿細工が心底好きな方(螺鈿フェチ)
もし、上記に当てはまらない方は1階だけでも高く感じるかもしれません。
2階は損した気分になるかもです。
ただ、上記に挙げた価値観を持っていたり、芸術や美術の価値がわかる方にとっては、とてつもない価値を持つ場所なので、1日でも早く見に行くことをお勧めします。
行くのを迷っているうちに文化財の劣化が進行してしまうので。
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角屋もてなしの文化美術館の見どころを予習(1階)
すでに紹介した「見学ルート」に合わせて見どころを紹介していきます。
画像をふんだんに掲載するとサイトが重くなるため1枚1枚の画像は粗目になっています。
ぜひ、角屋に行って本物をみてくださいね!
①:廊下の壁「大津磨壁」
↑こちらの写真は、1階で一番広い「松の間」に行く途中の廊下。
この黄色い壁は、「大津磨壁」です。
そもそも「大津壁」とは、土に繊維状材料(苆)と少しの石灰を混ぜた材料を壁に塗りつけたあと、コテで何度も押さえ、きめ細やかな肌質に仕上げる土壁のこと。
大津壁を大きく分けると「泥大津」「並大津」「大津磨き」の3種があり、角屋の壁に使われている「大津磨き」は、大津壁の最高級の仕上げ方になります。
現代でも、大津磨きは専用のコテが必要で、施工できる左官職人が限られている貴重な仕上だそうです。
角屋内のお客さまが通る狭い通路や階段は、すべてこの技法でツルツルに磨き上げられ、着物がすれても汚れたり、引っかかってほつれたりしないよう、おもてなしの工夫がされています。
先ほどの大津磨き壁をひきで見た写真 | 同じ廊下の台所横の大津磨き壁の写真 |
こちらの写真は、画質を落として粗くなっているので実際に現地で本物のツルツルの壁を見てくださいね!
②:お座敷「松の間」と前庭「臥龍松の庭」
松の間
- 角屋で一番広い43畳のお座敷(23畳の大広間と12畳と8畳の次の間で構成)
- 室内の釘隠しや引手などのデザインが「蔦(ツタ)」で統一されている
- 襖絵は岸連山・筆『金地桐に鳳凰の図』、書額は薩摩藩士・筆『蓬壺生春酒』
- 木造平屋建の離れ(1925年の火災後の再建のため重要文化財の指定対象外)
- 新選組の芹沢鴨が暗殺される前夜に宴会が行われた部屋として有名
こちらのひろ~いお座敷は「松の間」です。大正時代のボヤによりこの建物は再建されているため、重要文化財の指定から外されています。
ボヤくらいでなんで建物を再建するの?と思うかもしれませんが、木造の建物は火が回るのが早いので、ボヤでもおきればすぐに周りの部分に火が回らないよう建物をくずしたので、再建するに至ったそうです。(角屋の台所には火事の時に建物を崩す道具がかざられています)
松の間はガイドさんが揚屋の条件や新選組の宴会の話をたくさんされるので、コロナ以降の30分のガイドツアーの場合、説明を同じ場所に立ってじっと聞いていると細かい部分まで見る時間がない場合もあります。細かい装飾まで見たい方は、ガイドさんの話を聞きつつウロウロ見て回るのがおすすめです。
こちらは松の間の床の間側を写した写真です。
「松の間」は大正時代に再建されていますが、新選組の芹沢鴨が暗殺される直前に宴会を開いたお座敷とあって、新選組ファンに人気です。
- 森徹山(1774-1841年)筆「藤下双鯉図」
こちらは床の間の掛け軸。森徹山(1774-1841年)筆「藤下双鯉図」です。
角屋はたくさんの貴重な文化財を所蔵しているため、掛け軸などは時期によって入れ替えられています。
こちらは床脇。天袋(上の戸棚)の木の細工が素敵ですね!
ちなみに、天袋(上の戸棚)と地袋(下の戸棚)の引手はツタのデザインです。
天袋は模様もツタですね。
松の間は、引手や釘隠し、欄間や額縁などのデザインが角屋の家紋のツタで統一されています。
↑こちらが角屋の家紋「蔓三つ蔦」です。
こちらは松の間の釘隠し。
こちらは床の間横の付け書院。付け書院の欄間と障子のデザインが繊細で美しいですね。
付け書院の左側のガラスから少し見えている渡り廊下は「遊仙橋」↓です。
この渡り廊下の突き当りのエリア「亭(庭にある休憩所)」で酔いを覚ましたそうです。
今は窓部分が締まっていますが、窓を開ければ嵐山の方までみえたそうですよ。
- 襖絵:岸連山・筆『金地桐に鳳凰の図』
- 書額:薩摩藩士・筆『蓬壺生春酒』
こちらは「松の間」の襖絵と額。
襖絵は、岸派の絵師・岸連山(1808-1859年)筆『金地桐に鳳凰の図』。
書額は、詳細は不明ですが薩摩藩士 筆『蓬壺生春酒』。
これらは蔵にあったものを後からここにはめているため、ロウソクの煤で黒くなることなくきれいなままだそうです。
襖絵は↑にあるおうに3面です。
こちらの書はいつごろのものかガイドさんに聞いたところ不明ととのことでした。
ネットで検索すると角屋を訪れた方々のブログに「薩摩藩州筆」と書かれており、角屋のパンフには「薩摩剛毅筆」と書かれています。江戸時代のもののようですね。
文字は右から「蓬壺生春酒」と書かれており、”ほうこしゅんしゅをしょうず”と読むそうです。
蓬壺(ほうこ):仙人のすむという蓬莱山(ほうらいさん)の別称または日本を表す比喩、生春酒は春にできた生酒あるいは春仕込の生酒(清酒は過熱しないお酒)という意味があるようです。
なお、襖絵の引手と額のフレームのデザインもツタで統一させています。
襖の引手 | 額のフレーム |
見学しつつ急いで写真を撮ったのでぼやけていますが、細かい装飾品まで統一感を出してこだわるのが角屋の粋です。
松の間にある、額入り障子(外の景色が見られるよう一部にガラスをはめた障子)の腰板部分は新しく張り替えたものですが、ガラスは『ギアマン』です。
上の写真ではわかりにくいですが、ガラスに近づいて斜めから見たときに波打っているように見えるものがギアマンガラスでかなり貴重なガラスになります。
割れてしまったら同じものは作れません。
こちら↑は、「松の間」の欄間。
こちらもツタのモチーフがデザインされています。
こちらは松の間の中の「次の間」と呼ばれる部分です。
こちらにも貴重な文化財、布袋さんが描かれた衝立があります。
- 朱塗雲龍文螺鈿衝立:岸良筆『布袋図』
衝立の枠(螺鈿細工) | |
衝立の絵は、江戸絵師の岸派の絵師・岸良筆『布袋図』です。
台座と枠の部分は、朱漆と螺鈿の組み合わせで16~17世紀頃の特徴のようです。
螺鈿細工は、龍がモチーフになっています。
角屋主庭「臥龍松の庭」(松の間の前)
- 松の間の前にある庭(京都市指定名勝)
- 庭のクロマツが龍が天に昇るような姿をしているため「臥龍松の庭」と呼ばれる
- 当時の松は枯れてしまったため現在は3本の松で当時の姿を表現
- 庭の左奥に当時の松の幹が残る
現在、角屋の庭に植えられている松は2代目です。
昭和に1代目の臥龍松が枯れてしまい、今は3本の松で当時の姿を表現しているそうです。
ちなみに、初代の臥龍松は、角屋の名物で江戸末期に発行されたイラスト付き観光ガイドブック『都林泉名勝図会』でも紹介されています。
↓こちらがそうです。(『都林泉名勝図会 5巻 島原角屋雪興』)
■都林泉名勝図会
1799年(寛政11年)刊行された京都の名庭園を紹介したガイドブック。文章を京都の俳諧師・秋里籬島が担当し、挿絵を絵師の佐久間草偃、西村中和、奥文鳴の3人が描いた。全5巻・1巻は上下巻の2冊。
こちらの絵から、2代目の松は、初代の松と違う場所に植えられていることがわかりますね。2代目は、松の間の前で雪遊びをするスペースに植えられています。
ちなみに、枯れてしまった初代の臥龍松は幹と少しの枝だけ残されています。
こちらは庭の左奥に残る、初代の臥龍松です。
都林泉名勝図会のように枝が後方(建物から見て)に伸びていってますね。
臥龍松の庭には2つの茶室があります。
- 茶室『曲木亭』(重要文化財)
- 『清隠斎茶席』(重要文化財)
『曲木亭』と『清隠斎茶席』は、松の間の縁側から少しだけ見える状態で、どちらも重要文化財です。
揚屋は宴会がメインですが、お昼間にお茶席を楽しみ、夕方から宴会をするというスタイルだったそうです。
「松の間」でガイドさんが解説してくれますが、4つの条件がそろって初めて揚屋として認められます。
揚屋の4つの条件
- 広い座敷がある
- 広い庭がある
- 広い台所(庫裏)がある
- 茶室がある
お茶室を写真付きで紹介しますね。
茶室 曲木亭 | 清隠斎茶席 (写真の左側のかやぶき屋根) |
「松の間」からは上の写真のように2つのお茶席が見えます。
それぞれをちゃんと見たい方の為の写真も用意しました。
茶室 曲木亭 | 清隠斎茶席 |
画像出典元:角屋案内記 |
清隠斎茶席は、カラスに屋根の木を持っていかれてスカスカになっているそうです。
茶室『曲木亭(きょくぼくてい)』は表千家好みの茶室で、柱に曲がった木を使っているためこの名前がついているそうです。
茶室内には、1688年前後(元禄時代)に表千家の宗匠、覚々斎が書いた額が掲げられているとのこと。
宗匠とは:文芸・技芸に熟達して人に教えることのできる人。特に、和歌・連歌・俳諧(はいかい)・茶道などの先生。
もうひとつの清隠斎茶席の方は、藪内流の安富常通清隠斎が建てたものを、1838年(天保9)年に移築したと伝えられているとのことです。
「松の間」と「臥龍松の庭」の見学を終えた後は、お座敷「網代の間」へ向かいます。
廊下のまっすぐ先が網代の間です。
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③:お座敷「網代の間」と中庭
「網代の間」:あじろのま
- 28畳、床・棚・付書院つきのお座敷
- 室内の天井や引手などのデザインが「網代(あじろ)・網」で統一されている
- 襖絵は長谷川等雲・筆『唐子の図』
- 重要文化財の対象内
こちらは、重要文化財に指定されている座敷のひとつ「網代の間」です。
網代の間は、重要文化財に指定されているので天井に照明はなく、お部屋に置かれたボンボリと、中庭側から入る光のみなので、薄暗い中での見学になります。
「網代の間」と呼ばれる所以が1番わかりやすい部分は天井です。
- 天井:大長枌網代組
- 棹縁:8mの北山丸太(北山杉)
「網代の間」の天井は「大長枌網代組」です。
「枌」は、木を薄くそいだ板のことなので、普通より長い枌を縦横に編んでいるということなのだと思います。
天井に何本も走っている長くて細い木、棹縁は8mの北山丸太(北山杉)です。
北山丸太は、他の木材と違って独特な美しい光沢があります。
棹縁まで普通の木材を使わずこだわるとはさすが高級料亭!
ちなみに棹縁が2階を支える柱の役割をしているそうです!すごいですね。
こちらは「網代の間」の床の間側の写真です。
ちなみに、網代の間も江戸時代にはお座敷として使われていたため天井と襖絵はロウソクの煤で黒くなっています。壁は後から塗り替えています。
さて、床の間側の左手には付け書院があり、ここにも網のデザインが施されています。
付け書院にはか火燈窓があり、その上の欄間は魚の網を模したデザインになっています。
写真がぼやぼやしてしまいましたが、こちらは床の間の地板。
約4mの松の大節木が使われています。
上の写真ではよくわかりませんが、実際には板の手前の部分(厚みの部分)に木の節が見られます。
こちらは床の間の柱は赤松。床の間の柱は取り外しができるそうですよ!
床脇の板は松の一枚板(4m×1m)。
- 長谷川等雲・筆『唐子図』
こちらは床の間とは反対側の襖絵。
長谷川等雲筆『唐子図』です。
こちらの襖絵も当時のものなのでロウソクの煤で黒くなっています。
近づいてみるとこのように子供たちが遊んでいる様子が描かれています。
(写真は明るさを調整しているのでかなり鮮明に見えるようになっています)
やんちゃそうな子どもたちがイキイキ描かれていてかわいいですね。
こちらは、「網代の間」の釘隠し。
「宝尽くし」といっていろいろな宝物を並べた縁起のよい吉祥文様の釘隠しです。
角屋 網代の間 釘隠し |
|
---|---|
宝珠の玉(如意宝珠) | ・雨だれ型の丸い玉 ・如意輪観音が持つなんでも願いをかなえてくれる玉 |
打出の小槌 | ・宝珠の左 ・振れば何でも思うままに出せるという伝説上の小さな槌で縁起物 |
蓑亀の毛 | ・打出の小槌の下 ・甲羅の後ろに毛をなびかせた亀は長寿を象徴 |
イチョウの葉 | ・亀の隣 ・葉の形が末広がりなので開運招福や富貴繁栄の象徴 |
隠れ笠 | ・イチョウの上 ・かぶれば身を隠せる想像上の笠を文様化した吉祥文 |
分銅 | ・隠れ笠の上 ・真ん中がくびれて左右が広がった形の美しさ、両替商が金や銀の重さを量るために使ったので富や財に繋がる吉祥紋 |
蓑亀と分銅はおそらくという私の予想ですが、そのほかはあっていると思います。
中庭(中坪庭)
- 中庭(中坪庭):名勝
こちらは網代の間の前にある中庭(中坪庭)です。
残念ながらコロナ以降にはじまった1階のガイドツアーは30分と短いので、解説されることはなく素通りです。
網代の間の見学の際にガイドさんの話を聞きつつ坪庭を眺めたりする必要があります。
網代の間で解説を聞いた後は、玄関(来客用)に向かいます。
④:玄関(来客用)室内より
- 来客用玄関
こちらは角屋のお客さん用の玄関から外を見た写真です。
左手の奥に「門口」と呼ばれるお客さま用の入り口があり、門口で籠から降りることなく、この玄関まで進んできます。
大きな四角い石は「靴脱ぎ石」といって、ここに籠を置きます。
そしてそのまま、籠の中から草履を履かずに部屋に入れるようになっています。
玄関から見える2本の木は「槐(えんじゅ)」です。
槐の木は、「延寿」と呼ばれる縁起の良いとされる木で、魔除けとしても使われます。
ちなみに、槐が立っている場所は従業員の出入口(中戸口)の前で、奥には台所があります。
槐が切られている杞憂は、成長するにつれて建物を壊し始めたからだそうです。
来客用の玄関では、刀を預かります。
刀を預かったら、上の写真にある「刀掛」にいったん掛け、その後台所にある刀箪笥に入れ、鍵を閉めます。
刀掛けに置いた時には、番号札をつけたそうです。
なお、新選組は見回りを理由に刀を預けず、お座敷などに刀傷を残しています。
来客用の玄関を見た後は、島原文芸資料室で展示を見ます。
⑤:島原文芸資料室
- 与謝蕪村筆『紅白梅図屏風』(重要文化財)
こちらは、島原文芸資料室です。
与謝蕪村が描いた『紅白梅図屏風』(重要文化財)がここにあります。
ガイドさんによってはこの部屋を飛ばして台所に行ってしまうことがあります。
30分のガイドツアーの場合、戻って再見学はできないので来客用の玄関の解説の後、台所に行こうとするガイドさんには、資料室はいつ見学するのか聞くのがおすすめです。
与謝蕪村の『紅白梅図屏風』(重要文化財)は、ガラスケースに入っているので撮影NGです。(角屋1階はガラスケースや展示ケースに入っているものは撮影NGです)
島原文芸資料室では、島原俳壇の解説が少しある個々で展示品を見ます。
島原文芸資料室の次は、大台所に向かいます。
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⑥:台所(土間以外)
台所のガイドさんの解説は、担当する人によって順番や説明対象が割と違います。
こちらの記事では、角屋を同じ月に2回見学した際に説明してもらったことを目いっぱい入れ込んでいます。紹介している順番も記事として解説しやすい順番に変えています。
- 刀箪笥(かたなだんす)
来客用の玄関から台所に入ると、すぐ右手に刀箪笥があります。
先ほどの玄関の刀掛けにいったん掛けた後、こちらの刀箪笥に入れて鍵を閉めます。
前述しましたが、新選組は見回りの名目で刀を預けずに角屋をうろついていました。
そのため、角屋にはいくつもの新選組がつけた刀傷が残ります。
ただ、角屋で桐愛をするような大きな事件があったわけではなく、脅しや酔った勢いだったようです。
- 帳場(ちょうば)
先ほどの刀箪笥のすぐ左手(来客用玄関から入った場合の左)には、帳場があります。
帳場の左手にあるガラス窓からお客様が玄関に入る様子を見ていたそうです。
ここでお客様情報を帳簿に書き込んでいたわけです。
角屋は現金は扱わず、ツケでの支払い(売掛)だったので、一見さんはお断りでした。
お客様がいらっしゃると、毎回帳簿にお名前、どの部屋を使ったか、掛け軸や花は何を飾ったか、食事は何を提供した、どの器を使ったかなどを事細やかに残していたそうです。
そして、次に同じお客様が来た時に必ず前回とは違うおもてなしをしたということなので、もてなしに対するこだわりがすごいです。
ちなみに、台所側から来客用玄関を振り返るとこんな↑感じ。
左手に刀掛け、右手が籠をつける玄関です。
↑こちらの写真に写っている、「帳場」の横の壁にかけられている5本の棒についても紹介しますね。
- 火消道具
5本の棒の正体は”火消し道具”です。
「破壊消火」と言わる江戸の消火活動で建物を壊して延焼を防ぐために使われた道具です。
火消道具は、紹介してくれるガイドさんとスルーするガイドさんがいます。
- 箱階段(はこかいだん)
続いてこちらは2階にい続く箱階段です。先ほどの刀箪笥の前に位置します。
スペースを有効活用するために階段の下が引き出しや押し入れになっています。
箱階段は、京都の古い家や建物では今でもよく見かけますね。
揚屋として営業していた時にこの階段をつかって2階に上がっていたかは、ガイドさんによって解説が違いました。
ある日のガイドさんは、この箱階段には神棚があるので使っていなかったといい、別の日のガイドさんはこのん階段で2階に上がっていましたと言っていました。
どちらが真実なのかはわからずです。
上の写真で分かるように、箱階段の上には障子のような扉がみえるので、個人的にはこの階段は使っていたのではないかと思っています。
図面的に考えるとこの階段を上がると非公開のお座敷「孔雀の間」などがある部分に出るようです。
ちなみに、この箱階段以外にも2か所に階段があるそうです。
ただ、これもガイドさんも見たことはないと言っていたので本当かはわかりません。
上の写真で、箱階段にたてかけられているのが、角屋が戦時中に取り壊されずに済んだきっかけになった、西郷隆盛が行水に使ったタライです。
- 西郷隆盛が使用したタライ
タライを正面から見た写真がこちら。
1945年(昭和20年)の戦時中、京都市内も空襲による延焼を防ぐために、主要な道路や鉄道から50m以内の建物が取り壊し対象になりました。
角屋は、山陰線が隣接しているため取り壊し対象でしたが、京都市の担当者が視察に来た際に、明治維新の立役者である西郷隆盛なども使っていた貴重な文化財(遺構)だと伝えたそうです。
視察後、取り壊しが保留になったまま終戦となりました。
そのおかげで今でも角屋の素晴らしい文化財を見ることができています。
- 新選組掛売禁止の古文書
西郷隆盛のタライを見た後、すぐ横にある展示スペース(↑上の写真にあるケース)も忘れずにご覧ください。
新選組の「新選組掛売禁止の古文書」が展示されています。
新選組掛売禁止の古文書は、新選組側から角屋に出されたもので、若い隊士が現金なしでツケで宴会を開くため、ツケで受け入れてくれるな!という内容とのこと。
ガラスケースの展示品は撮影NGです。
特にガイドさんから、この展示品は何々ですと解説されないので個々で見る感じです。
展示ケース内の展示品は入れ替えがあります。
新選組掛売禁止の古文書は、おそらく長期展示されていると思いますが、変更になることもあるかもしれません。
角屋の台所 (クリック・タップで拡大できます) |
|
台所の畳エリアの様子 | 台所の板間と土間エリアの様子 |
- 台所は100畳(畳エリア50畳・板間と土間エリア50畳)
- 50~100人前の料理ができる台所
- 常時20~30人の従業員が働いていた
- お寺の庫裏(台所)のように土間部分は天井が高い
今紹介している台所は、土間も合わせると100畳の広さとのこと。
内訳は、畳エリア50畳、板間と土間エリアで50畳。
50~100人前の料理の準備ができる台所になっています。
お料理の準備をするために常時20~30人の従業員が働いていたそうです。
畳が敷かれた50畳のエリアは揚屋として営業していたころには、部屋の中央に柱がないだだっぴろい状態でした。
上の写真に写っている2本の細い柱は、建築法の関係で現代になって追加されたものです。
もともと角屋の台所を支えていた柱はこちら↓の3本。
写真の「柱①大黒柱」は、54cm角の松の木です。
反対側から見るとこんな感じです↓。
柱②は補強がされています。柱のところにある木像は布袋さんです。
布袋さんをアップにした写真が↑こちら。
非常に温和な表情でふくよか!
柱③をアップにした写真が↑こちら。
柱③には神棚があります。
こちらは、布袋さんいる柱の下ですが、畳エリア内のこの板張りは、酒樽などを置いた部分とのことです。
この酒樽などを置く板間に、火鉢と明かり(行燈)があります。
台所は、50~100人前の料理を準備するために20~30人の従業員が慌ただしく行きかっていたので、明かりもぶつかって倒さないよう、天井からつるす「吊行灯」です。
台所の畳エリア、板間エリア、土間エリアすべて「吊行灯」が使われています。
- 台所の板間(調理場・配膳場)
こちら↑は、台所の板間と土間エリアの写真。
写真の右手前部分は、床下収納です。
床下収納をアップにした写真がこちら↓。
- 床収納
この畳エリアと板間エリアに段差がなくフラットなところがまたすごいとガイドさんの解説があります。
江戸時代からバリアフリーな角屋です。
特にガイドさんの解説はありませんでしたが、板間にも吊行燈がります。
こちらの板間エリアの吊行灯の傘は、丸みがあってかわいい形です。
傘の形で明かりの広がり方が違うと思うので、配膳作業にはこの丸みのある傘がぴったりだったのでしょうね。
板間の土間側には、竈(かまど)や大きな流しがあります。
かまど | 流し |
↑クリック・タップで拡大できます |
竈については土間側に行った際に解説がありました。
今度は、最初に下駄箱に預けた靴を履き、土間側へと進んでいきます。
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⑦:台所(土間部分)
土間部分もガイドさんの解説する部分がガイドさんによって異なります。
天井や換気については、台所の板間の部分で解説するガイドさんもいますが、本記事では土間部分でまとめて紹介しています。
角屋の大こと炉の天井は非常に高いです。
大きなお寺の庫裏(台所)と同じ規模感の台所が角屋にはあります。
↑この写真は土間を出た中戸口側から撮影したものです。
規模感を伝えるためにこの写真を使ってます。
角屋の台所の換気は、基本的に天井にある換気窓↑から行ったです。
ここだけで足りない場合には2つの窓(↓)を開けて煙を一気に外にだしたとのこと。
土間の換気窓 | |
窓についているロープを引くと窓が開きます。
この窓も開けると煙がスッと晴れていったそうです。
土間には竈(かまど)があります。
お寺の庫裏(台所)にあるはもっと地面に近いところにかまどがありますが、角屋は立って作業ができるように焚口が高い位置にあります。
焚口の高さがわかる写真がこちら↓。
しゃがまずに焚口に薪を入れたり、竹筒で空気を送ったりできるのは非常に効率的ですね!
土間側から見た竈 | 板間側からみた竈 |
この記事を書いていて今更気づいたのですが、土間側からは調理に専念でき、板間側からはご飯をよそったり配膳に専念できるという、場所を有効活用できる竈(かまど)の構造に感動です!
⑧:中戸口(従業員出入口)
中戸口(従業員出口・内玄関)でのガイドさんの解説も担当者によって異なります。
特に細かく解説なく中戸口の外側の解説へと進む方もいます。
こちらの記事では、角屋を同じ月に2回見学した際に説明してもらったことを目いっぱい入れ込んでいます。
先ほどの竈があった場所からさらに進むと、料理人や中居さんなどの従業員、お座敷に上がる太夫や芸妓さんたちが出入りする内玄関(中戸口)に出てきます。
お座敷に上がる太夫や芸妓さんたちは、こちらで草履を脱ぎ中に入っていきます。
玄関の式台部分には草履をしまう引き出しが用意されています。
玄関の式台の左側には、腰を掛けたり荷物が置けるようなスペースも↑。
目隠しの板にある3つの模様は角屋の家紋「蔓三つ蔦」です。
内玄関スペースにも吊行燈があります。傘の部分のデザインが台所の畳エリアや板間とまた違いますね。
- 三宝荒神(飾り竈)
内玄関(中戸口)には、「三宝荒神(さんぽうこうじん)」と呼ばれる、台所の神様を祀る飾り竈があります。
こちらの飾り竈には、防火・盗難除け・不浄除けの役割があります。
今度は中戸口を出て来客用玄関や門口へ進んでいきます。
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⑨:玄関(来客用)室外より
中戸口の正面(上の写真で暖簾がかかっている部分)がお客さま用の出入口の「門口」です。
門口の前に飾られている暖簾は、揚屋として営業していた時には、中戸口(従業員用出入口)にかけられていました。
今は、見学者が出入りするので門口前に飾られています。
ここに暖簾がかかると↓こんな感じになります。
(画像出典元:角屋案内記)
ちょっと写真がゆがんでしましましたが、そこは無視してください。
上の写真をもとに中戸口周辺を紹介しておきますね。
- 左側:用水桶(雨水をためておく防火水槽)
- 右側:見張りの出格子と石の井桁井戸
- 2本の木:槐の木(「延寿」と呼ばれる縁起の良いとされる木で魔除け)
- 左の木の手前:辻行灯(見張り用のあかり)
こちら来客用玄関を見た写真です。
玄関奥の中庭が見えるよう、石畳はわざと斜めになっています。
石畳の左右に敷かれた石は鴨川の「加茂真黒石」。
打ち水をして水がかかると真っ黒になってとてもキレイだそうです。
玄関に向かって右手の建物の柱には、新選組がつけた刀傷が残っています。
刀傷のアップがこちら↑。
前述していますが、角屋では切り合うような乱闘はありませんでしたが、見回りと称して刀を預けずにウロウロする新選組が、いたるところに刀傷を残しています。
2階の青貝の間にも刀傷があります。
こちら↑は、門口の前にかけられた暖簾の奥をのぞいた写真。
扉の上にはお札が貼られています。
中戸口の外、門口前のエリアの見学を終えた後は、冷蔵所と籠を見に行きます。
⑩:冷蔵所と籠
- 冷蔵所と籠
こちらは籠と冷蔵所(冷蔵庫)の写真。(籠の右手側の柵がある部分が冷蔵所)
角屋は、お客様がどんなにぐでんぐでんに酔って寝てしまっても必ず籠に乗せて帰したそうです。そのため、角屋用の籠がいくつかあったそうです。
こちら↑は、冷蔵所を上から覗いた写真。
ここに料理の素材を保存したそうです。
ガイドさんとめぐる1階部分は、ここまでになります。
最後に各自で展示室を見学します。(最後ではなく、ツアーガイドが始まる前でもOK)
⑪:展示室(企画展示室)
写真の右側は展示室(美術館)です。
角屋は貴重な文化財をたくさん所蔵しているので、いろいろな企画展がここで開催されています。
一階の紹介は以上です!
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角屋もてなしの文化美術館の見どころを予習(2階)
今度は2階部分の見どころを写真と共に紹介していきます。
角屋の2階は全面撮影禁止なので、書籍(角屋案内記)から写真を引用して紹介しています。
⓪2階へ続く階段
2階へ上がる階段は、「お客さま用玄関」と「網代の間」の間にあります。
2階のツアー時間以外は、扉は閉められ、結界が置いてあるので階段があるとは気が付きません。
①お座敷「緞子の間(どんすのま)」
(画像出典元:角屋案内記)
- 23畳・床、棚、付書院つき
- 朱色を基調とした座敷
- 襖や障子に蜀江文(しょっこうもん)の緞子(どんす)を使用
- 釘隠しは菊の門(七宝焼き)
2階に上がって、まず最初に見学するのは「緞子の間」です。
(↑角屋2Fの東側の間取り)
残念ながら「緞子の間」は室内には入れません。
上の見取り図にある「②御簾の間(口の間)」からガイドさんの話を聞きます。
「緞子の間」の壁・障子紙・畳は新しくされていますが、その他の部分は当時のままなので天井と障子の腰板はロウソクの煤で黒くなっています。
「緞子の間」と呼ばれる理由は、室内の”襖”や”腰付き障子”の腰板部分(下の方の板の部分)に緞子(どんす)を貼っているためです。
緞子とは:先に色を染めた糸を使って複雑な柄を織りあげる絹織物のこと
緞子の模様は、八角形と四角形を組み合わさた「蜀江文(しょっこうもん)」です。
蜀江文の参考イメージはこちら↓。
(画像出典元:京都きもの工房ブログキャプチャ)
緞子の間では、その他に床や床脇の木材や障子の組子の解説があります。
また、緞子の間には「歩障」と呼ばれるL字型の衝立が置かれています。
食事の後に下げた器を置いた場所や化粧直し時の目隠しとして使うものです。
必要なお座敷に移動させて使う目隠しの衝立なので、歩障の絵柄は『花車の図』で江戸時代の絵師 岸良(がんりょう)筆です。
2階のお座敷のデザインについて
なお、2階座敷の①~④は襖を取り払い、一つの座敷としても使うため障子の組子(縦横の棒)のデザインを統一しています。
(↑角屋2Fの東側の間取り)
2階東側の座敷の障子の組子は縦5本横3本の吹き寄せで統一されていますが、欄間・釘隠し・障子の腰板は各お座敷で別のデザインにしています。
②お座敷「御簾の間(口の間)」
(画像出典元:角屋案内記)
- 12畳
- 襖の引手:角屋の家紋
- 欄間:雷模様
- 釘隠し:菊の紋
- 襖絵:山田我山筆『総御簾の図』
次に解説付きで見学するのは「御簾の間(口の間)」です。
「御簾の間」と呼ばれる理由は、襖絵に御簾が描かれているためです。
御簾とは:簾(すだれ)の尊敬語/宮殿や神殿などに用いる簾のこと
また、「御簾の間」は「口の間」と「奥の間」で構成されており、階段を上がってすぐのお座敷が「口の間」と呼ばれています。
(↑角屋2Fの東側の間取り)
(画像出典元:角屋案内記)
こちらの画像に写っている襖は山田我山が描いた『総御簾の図』の複製(模写)です。
模写といっても明治時代に模写しているので100年以上前に描かれています。
実際に山田我山が描いた『総御簾の図』は、御簾の間(奥の間)との境にあります。
250年前のままなので真っ黒です。
本物の『総御簾の図』が黒い理由は、ロウソクの煤だけでなく銀紙(銀箔)の上に描かれているため、銀が酸化して黒くなっているそうです。
御簾の間(口の間)の襖の引手は角屋の家紋「蔓三つ蔦」で、欄間は「雷」模様。
当時雷文様が流行っていたとのことです。
③お座敷「御簾の間(奥の間)」
(画像出典元:角屋案内記)
- 畳10畳(床・棚つき)
- 床の壁:檀紙に金箔
- 左の地袋:石田幽汀・筆『金地花鳥の図』
- 襖絵:山田我山筆『総御簾の図』
今度は御簾の間の奥の部屋「奥の間」の見学です。隣の草加の間とつながる出入り口には本物の御簾がかけられています。
(↑角屋2Fの東側の間取り)
ここはお城の謁見の間なのかな?と思うほど豪華な作りです。
まず、床の間の壁は檀紙に金箔が施されています。
檀紙は高級和紙の一種でちりめんのようにシワシワした紙です。このシワシワの紙の上に金箔をはることで凹凸をつけ、影が出ることで金箔が光るのを抑えて、優しく光らせているとのこと。
床の間の左手の地袋(引き出し)も金地で絵は、江戸時代の絵師 石田幽汀が描いた『金地花鳥図』です。
床の間の落とし掛けの中央の曲がった木は紫檀が使われ、左右は虫食い丸太に金の刷り込みを施しています。
また、床の間は見えない部分まで工夫が凝らされており、天井が船底天井になっています。
船底天井・壁、落とし掛けなどは、ガイドさんがボンボリで照らして見せてくれます。
船底天井とは:天井の中央部分が両端より高く勾配がついた天井のこと
檀紙とは:高級和紙の一種。厚手で、ちりめんのようなしわがある
紫檀とは:加工がしやすく磨くと美しいツヤが出る、古くから珍重されてきた高級素材
虫食い丸太とは:虫が食べたような細工を施した丸太
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④お座敷「扇の間」
(画像出典元:角屋案内記)
- 21畳
- 天井・欄間・襖の引手:扇のデザイン
- 天井の扇:58枚(絵師による絵や歌人の歌が描かれている)
- 襖絵:源氏物語風の大和絵8枚
- 釘隠し:源氏香の図柄
- 壁:浅黄色の九条土
- 額:『前赤壁の図』(絵・岸駒/書・岸岱)
次に見学するのは「扇の間」です。
「扇の間」は、天井(扇以外)・壁・障子紙は修復しているのでキレイです。
さて、「扇の間」には「高座」と呼ばれる舞台が用意されています。
上の写真の中央、襖と襖の間の一段高くなっているところが舞台です。
なぜ、舞台が高い位置にある理由は、2階東側のお座敷①~③の襖を外して1つの大座敷として使う際に、①の緞子の間からも舞台が見えるようにするためです。
(↑角屋2Fの東側の間取り)
①緞子の間~④扇の間までを1の大宴会場にすると50名のお客さまをもてなせる広さだそうです。
ちなみに、高座で演じる人は隠し廊下を使って高座に入ってきます。
(画像出典元:角屋案内記)
天井の扇は58枚あり扇を書いた人物のうち、公表されている人はこちらです。
絵師 | 岸駒(がんく)、岸岱(がんたん)、素文(そぶん)、 雪旦(せったん)、竹坡(ちくは)、法眼索玩(ほうがんさくがん)など |
---|---|
歌人 | 大平(おおひら)、季鷹(すえたか)、景樹(かげき)、浜臣(はまおみ)など |
扇の間の襖絵には「源氏物語」が描かれ、それに合わせて釘隠しは「源氏香」の図柄になっています。
襖絵の源氏物語は『乙女』『絵合』『玉鬘』『御行』とガイドさんが解説してくれたのですが、どの襖絵がどれなのかはメモが追いつきませんでした。
ちなみに源氏香の図は↓こちらのことです。
次は「草花の間」へ。階段まで戻り、階段の踊り場から「草の間」に入っていきます。
⑤控えのお座敷「草花の間」
残念ながらこちらのお座敷の写真はありません。
- 6畳
- 襖絵:山田我山・筆『四季草花の図』
「草花の間」は階段のすぐ横にあり、控えの座敷として使われたそうです。
(↑角屋2Fの東側の間取り)
控えの間にもお客さまを楽しませるために襖絵があります。
「草花の間」の襖絵は山田我山が描いた『四季草花の図』。
四季の草花が描かれた襖絵なのですが、退色がはげしく何の花かは分からないようです。
モクレンかユリではないかな?とガイドさんが話していました。
ただ、胡粉で描かれた「梅鉢」の模様だけ白く残っているので認識することができます。
⑥控えのお座敷「馬の間」
(画像出典元:角屋案内記)
- 9畳
- 襖絵:円山応挙・筆『少年の図』
- 釘隠し:鶴
- 欄間:筬欄間
こちらのお座敷も壁・障子紙・畳は新しいものになっていますが、そのほかは当時のままです。
「馬の間」も奥へ行くための控えの座敷として使われたそうです。
控えのお座敷ですが、なんと襖絵は円山応挙が描いたもの。
『少年行の図』といって、若い男性が馬に乗って街に行く様子が描かれているのでこちらのお座敷を「馬の間」と呼びます。
(↑角屋2Fの東側の間取り)
「馬の間」の天井は角屋が現在の場所に移転する前、六条三筋町で約40年間(1602-1640)使ったものを持ってきているそうです。角屋の中で1番古い400年前の天井です。
「馬の間」には、目が粗い筬欄間と細かい筬欄間があるのですが、目が粗い方が古く、細かいものは粗いものの100年後に造られたものだそうです。
馬の間の見学を終えたら、今度は2階の西側の棟へ移動します。
(↑角屋2F「馬の間」から西側の間取り)
馬の間の横の廊下を進んでいきます。
⑦お座敷「桧垣の間」
桧垣の間 北側:床の間側 | 桧垣の間 南側 |
(画像出典元:角屋案内記) |
- 14畳(床2か所・棚・押入つき)
- 天井・欄間の組子・障子の腰板:桧垣組
- 壁:聚楽壁
- 床の間側襖:長谷川等雲・筆『唐子の図』
- 床の間側小襖:土佐派・筆『源氏車争いの図』
- 北側襖絵:与謝蕪村・筆『夕立山水図』
- 北側書:池大雅『春夜洛城聞笛』
次は「桧垣の間」です。
「桧垣の間」は数寄屋風造りなので釘隠しがありません。
「桧垣の間」の壁は、聚楽壁です。
数寄屋造りとは:数寄屋(茶室)風を取り入れた建築の様式
聚楽壁とは:京都西陣にある聚楽第跡地付近でとれる「聚楽土」を使った土壁
聚楽土はごく限られた場所からしか見つからない非常に貴重な土
こちらのお座敷の壁・障子紙・畳は新しいものになっており、床の間側の「小襖」はロウソクの煤洗いをして絵柄が見えるようになっています。その他は当時のままです。
さて、お座敷「桧垣の間」は、デザインが「桧垣模様」に統一されています。
桧垣模様は↓こちら。タイルをジグザグに並べたような模様です。
具体的にお部屋の写真と共にどこが桧垣模様になっているか紹介していきましょう。
↓下の写真の天井・右側の欄間と障子の腰板、左の襖の上下のデザインが桧垣模様です。
(画像出典元:角屋案内記)
↓こちら写真は、額縁のデザインに注目してください。桧垣模様になっています。
(画像出典元:角屋案内記)
上の写真の襖絵は、1760年(安永9年)、与謝蕪村が65歳のときに描いた晩年の大作『夕立山水図』です。
さて、襖絵の上にある額は、池大雅(雅号:大雅堂)の書で、中国の盛唐の時代の詩人”李白”の『春夜洛城聞笛』が書かれています。
「桧垣の間」は、障子の組子のデザインがとても斬新で波形になっています。
しかもこの波線は、木を曲げたのではなく、左右から彫っているとのこと!
しかも縦の波線と横の直線も彫ってこの形にしているそうです。
近くで見ると継ぎ目がなく、つながっているのがよくわかります。
↓下の写真の右側の障子が波型の組子です。当日ガイドさんが説明してくれますが、目の錯覚を利用した仕掛けも施されています。
↑上の写真の中央。小襖は、角屋が現在の場所に移転する前、六条三筋町でも使っていた(1602-1640年)ものを持ってきているので400前のもの。
前述していますが、400年前と時代が古いのにロウソクの煤で真っ黒になっていないのは、ロウソクの煤洗いをしているからだそうです。角屋で1番古いけどキレイな状態で見られます。
作者は不明ですが土佐派・筆と伝わる『源氏車争いの図』。
車争は「源氏物語」葵の巻にある話です。
桧垣の間は、これまでのお座敷以上に細やかなこだわりが多く、この部屋の解説をきいただけでもおなかいっぱいなのですが、次の「青貝の間」がさらにすごいんです。
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⑧お座敷「青貝の間」
青貝の間 床の間側 | 青貝の間 南側 |
床の間と神爾棚(しんじだな) | 明かりとり |
画像出典元:角屋案内記 |
- 17畳(床・棚つき)
- 壁:九条土(浅葱色)
- 天井:蒲筵
- 襖絵:「山水図(岸駒筆)」
- 額「五言篆書 日新又日新」
- 新選組の刀傷が残る
さて、いよいよ角屋2階お最後のお座敷です。全体のデザインがが中国風です。
「青貝の間」は、角屋で最も高級なお座敷で部屋のいたるところに螺鈿細工が施されています。
ただ、螺鈿細工は現在では再現することができない技術なため、このお座敷の螺鈿が埋まっている壁はロウソクの煤でまっ黒なままになっています。
本来の壁の色は「浅葱色(明るい青緑色)」で、「扇の間」と同じ色になります。
青貝の間は、先ほどの桧垣の間のお隣にあります。
(↑角屋2F西側の間取り)
青貝の間には露台と呼ばれるテラスがあり、江戸時代には青貝の間からも1階の「臥龍松の庭」が見え、正面には嵐山の景色が広がっていたそうです。
ちなみに、上の画像(見取り図)にある臥龍松の位置は、2代目の松の位置です。
江戸時代はこのような↓景色でした。
「青貝の間」の露台(テラス)の床は、四半敷で、中国風の椅子が置かれています。
四半敷とは:正方形の石を斜めに敷きつめる敷き方
四半敷は、今では珍しくありませんが当時は斬新だったそうです。
「青貝の間」は床の間のデザインも他のお座敷と違い、独特です。
(引用元:角屋案内記)
上の画像の左側が床。地袋(下の4枚の板)は『青貝四季絵戸』
床柱に新選組がつけた刀傷が2か所残っています。
右側は、中国の道教の神さまを祀る「神璽棚」です。
上の段の火燈窓の中ににつるされている丸い玉が”神璽”で、神様の魂を表します。(現在は魂は抜いているとのこと)
「神璽棚」の下の段の板戸は、螺鈿で唐風の山水を描いています。
上の画像の左手にちらっと移っていますが、障子のガラス部分は「神璽棚」の火燈窓とおそろいの形になっています。ガラスはギアマンです。
(引用元:角屋案内記)
こちら↑は、床の間とは反対側の壁。
螺鈿をきれいに光らさせるための「明かりとり」です。
明かりとりの上の段は左から、扇、中国の団扇、隅丸矩形(角が丸い長方形)の形になっています。
下段の明かりとりで注目すべき点は、障子の組子が木を削り出して細いラインになっていること。(桧垣の間の曲線の組子と同様です)
また、左右2枚の障子の組子がぴったり1直線に見えることにも注目です。
上の画像に少し写っていますが、天井は蒲を筵に編んだ「蒲筵」で、当時のままなので煤で真っ黒です。
「青貝の間」には、今回写真では紹介できない部分がたくさんあります。
「青貝の間」の襖絵は、江戸時代の絵師、岸駒が描いた『山水図』、襖の引手は、籠目模様(六芒星)の中に6枚の花びらが形どられた七宝焼きです。6枚の花びらは違う色の七宝が使われています。
「青貝の間」の額も螺鈿細工で「日新又日新」と篆書で書かれています。
日新又日新とは:禅語で”日々新又日新(ひびあらたにして、またひにあらたなり)”
篆書とは:古来中国から伝えられた書体で 日本銀行が発行するお札やパスポートなどにも使用されている文字
「青貝の間」は、ほかのお座敷と違って細工を施した左官職人の名前が残されています。
「青貝の間」の入り口のすぐ左手に「水泥匠亀松創造是」と署名があります。
しかも、螺鈿細工で壁に埋め込まれています。
「水泥匠」は中国語で「左官職人」という意味で、亀松が職人さんのお名前です。
とにかく、青貝の間は当時の最高級の匠の技と異国情緒がミックスした斬新なお部屋です。
2階の非公開のお座敷
せっかくなので、2階の非公開エリアのお座敷とも写真と共に紹介しておきます。
角屋2F非公開のお座敷(クリック・タップで拡大します) | |
孔雀の間↓ | 八景の間↓ |
↑梅の間 | ↑囲いの間(茶室) |
2階の見学時に「馬の間」から「桧垣の間」に行く際に通る廊下の左側にこちらのお座敷があります。
残念ながらこちらのお座敷は建物の安全上の問題から現在は公開されていません。
非公開「孔雀の間」(2Fお座敷)
- 4畳半
- 襖絵:江村春甫・筆『孔雀に牡丹・海棠の図』
孔雀の間の襖絵は、江戸時代中期から後期の画家、江村春甫が描いた『孔雀に牡丹・海棠の図』。
海棠とは:バラ科の落葉小高木で4月ごろに紅色の花が下向きに咲く
(花は桜や梅に似ている)
非公開「八景の間」(2Fお座敷)
- 6畳
- 障子の組子:衽組入子菱組(おくみぐみいりこひしぐみ)
- 天井:焼杉と柾板の張り分け
- 襖絵:富士谷成章の「郭八景」の和歌
- 額:皆川淇園の書
「八景の間」は、襖の組子が特徴的で斬新です。
富士谷成章(江戸時代中期の国学者で歌人)と皆川淇園(江戸時代中期の儒学者)は兄弟です。兄が淇園、弟が成章。
- 10畳半
- 襖絵:与謝蕪村・筆『梅の図』(重要文化財)
- 額:狩野常信・筆『梅の図』
- 歩障:沈茗園『梅之賦十首』
「梅の間」の襖絵は与謝蕪村が描いた総金地の『梅の図』(重要文化財)、上の額は狩野常信が描いた『梅の図』、左に少し見えているのが歩障です。
非公開「囲いの間」(2F茶室)
(引用元:角屋案内記)
- 5畳半
- 天井:薩摩柾板、桐張り分け
- 床付の柱:松の歪み木
非公開の「囲いの間」は、真っ赤な壁の斬新なお茶室です。
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角屋もてなしの文化美術館:交通アクセス
基本の交通アクセス(住所・バス停・駅)
角屋もてなしもてなしの文化美術館 | |
---|---|
住所 | 〒600-8828 京都市下京区西新屋敷場屋町32 |
最寄りのバス停 | ・京都市営バス(市バス)「梅小路公園・JR梅小路京都西駅」下車、徒歩約7分 ※バス停の名称は「梅小路公園・JR梅小路京都西駅」が今のもので、公式サイトに記載のある「梅小路公園前」のこと |
・京都市営バス(市バス)「島原口」下車、徒歩約10分 | |
最寄りの駅 | ・JR嵯峨野線「丹波口」駅下車、徒歩約7分 |
・JR嵯峨野線「梅小路京都西」駅下車、徒歩約8分 |
「梅小路公園・JR梅小路京都西駅」に停車する市バスの系統
「梅小路公園・JR梅小路京都西駅」に停車する市バスの系統(番号)は205・208・33・特33・58・86・88です。
33と86は1時間に1~2本と運行本数が少なく、58・88は土日のみで本数が少ないです。
なので、205か208で「梅小路公園・JR梅小路京都西駅」を目指すのがおすすめです。
京都駅の京都タワー側(烏丸口)のバスターミナル、B3乗り場で208「九条車庫前行」か205「九条車庫前行」に乗ります。
「島原口」に停車する市バス
島原口に停車する市バスの系統(番号)は206・207・6・18・特18・58・71・特71です。
京都駅の京都タワー側(烏丸口)のバスターミナルから角屋もてなしの文化美術館にバスで行くなら島原口ではなく、「梅小路公園・JR梅小路京都西駅」駅に行くバスに乗るのがおすすめです。
京都駅からのオススメ交通アクセス
京都駅から角屋もてなしの文化美術館に行くのであれば、JR嵯峨野線に乗って「丹波口」駅まで出るのがおすすめです。料金も150円で、バスの運賃230円よりお安いです。
※料金は記事執筆時のものなのでお出かけ前にご確認ください。
もし、1日バス乗車券を使うのであれば、京都駅からバスでもいいですが、角屋もてなしの文化美術館に近いバス停に止まるバスは、観光客でごった返すのであまりお勧めしません。
バスの場合、土日や観光シーズンは角屋見学前に体力を消耗する危険性があります。
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角屋もてなしの文化美術館:駐車場・駐輪場
角屋の向かい(通常の拝観受付の門の向かい)に車4台と自転車が止められる場所があります。
受付の方が自転車はここに止めてOKと話していたので止めて問題なしです。
ただ、自家用車は公式サイトで駐車場について書いてないので問い合わせが必要です。
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角屋もてなしの文化美術館と合わせていきたいオスメスポット
島原探索ならここ!
江戸時代、政府公認の花街だった島原の面影を散策するならこちらの4か所がオススメ!
輪違屋 | 島原大門 | 島原住吉神社 | 樹齢300年の大銀杏 |
上記に挙げた場所は、道路もきれいな石畳に整備されています。
輪違屋(わちがいや)
- 角屋と同じ江戸時代に置屋として営業し、明治5年以降置屋兼お茶屋として今も営業している
- 現在も太夫の教育の場であり、宴席も行われる
- 通常非公開(京の夏の旅や冬の旅で内部が公開されることあり)
- 現在の建物は1857年(安政4年)に再建、1984年(昭和59年)に京都市指定有形文化財に指定
角屋もてなしの文化美術館を見学したなら、合わせて輪違屋も見ておきたいところ!
京の夏の旅や冬の旅で内部が公開される期間以外は、外観だけでも見る価値あり!
京の夏の旅2023で特別公開されます。
島原大門(しまばらおおもん)
- 1867年(慶応3年)に再建された島原の正門
- 京都市の登録有形文化財
江戸時代政府公認の花街だった島原の入り口。現在は再建された門構えのみ残っています。
島原住吉神社(しまばらすみよしじんじゃ)
- 島原中堂寺町に住む、住吉屋太兵衛が自宅に祀った住吉大明神が霊験あらたかと人気をはくしたのが起源
- 1732年(享保17年)に島原の北西に移され、島原の鎮守神となる
- 明治維新後は廃社となり1903年(明治36年)に現在の地に再興
現在はこじんまりとした神社でが、角屋が繁盛していた時代には、霊験あらたかで良縁に聞くと人気を博した神社です。
樹齢300年の大銀杏(おおいちょう)
- 樹齢300年の大銀杏(おおいちょう)
- 島原住吉神社の旧境内地にあったご神木
- 昭和5年(1930)に銀杏の根元に弁財天社が祀られる
島原住吉神社の境内が広かった頃、このイチョウは境内の北端にありご神木でした。
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新選組ゆかりの場所ならここ!
壬生寺 | 壬生屯所旧跡 八木家 | 新選組屯所 旧前川邸 | 西本願寺 |
角屋もてなしの文化美術館から徒歩25~30分圏内には、新選組の屯所後がたくさんあります!近藤勇、土方歳三、沖田総司、斎藤一などの隊士たちが実際に過ごした場所を見て回るのも楽しいですよ。
壬生寺(みぶでら)
- 壬生寺の経緯が新選組隊士たちの訓練場として使われた
- 壬生寺内の壬生塚には幕末の新選組隊士の墓などがある
壬生寺の広い境内は新選組の隊士たちが訓練場として使っていた場所です。
壬生寺の境内は自由拝観ですが、新選組隊士のおは画がある「壬生塚」は拝観料300円です。
壬生屯所旧跡 八木家(みぶとんしょきゅうせき やぎけ)
- 文久3年(1863年)から約2年間新選組の屯所として使われた
- 芹沢鴨が暗殺された部屋が見学可能
- 京都市指定有形文化財
現在、京都鶴屋鶴寿庵という和菓子屋さんが八木邸を管理されています。
ガイドの案内付きで拝観できます。(拝観時間は決まっています)
新選組屯所 旧前川邸(しんせんぐみとんしょ きゅうまえかわてい)
- 文久3年(1863年)から約2年間新選組の屯所として使われた
- 山南敬助、野口健司が切腹した部屋や古高俊太郎の拷問が行われた東の蔵がある
- 建物内は非公開で土日祝日に新選組のグッズ販売がされている
旧前川邸は個人宅のため内部は非公開です。ただ、土日祝日(AM10:00~PM5:00)に、玄関(隊士の行き来した当時の勝手口)で、新選組に関するグッズを販売しています。
京の夏の旅2023では東の蔵が特別公開されます。
西本願寺(にしほんがんじ)
- 慶応元年(1865年)から約2年間境内の北集会所と太鼓楼が新選組の屯所として使われた
- 北集会所は、姫路の亀山本徳寺に移築されたが、太鼓楼は今も西本願寺に残る
- 太鼓楼は外観のみ見学可能
世界遺産である西本願寺も新選組の屯所として使われていました。
西本願寺は境内は自由拝観で、僧侶による無料ガイドツアー(お西さんを知ろう)も毎日行われています。
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